Easy + Nice レーベルのblog

アンビエント・ダブテクノなどを作る電子音楽家・Wakiによるブログ。 元々は運営している音楽レーベル「Easy + Nice」の情報発信のために立ち上げたものだが、最近は音楽制作全般や日記的なもの、哲学的なものが中心になってきている。

作ってからしばらくたったものを、久々に聴きなおしてみるとまた全然違って聴こえたりする。

特にどこかで誰かが突然かけてくれた場合とか。


2015年に発表した「Rhythm Works」は、2012年~2014年頃にかけて作りためていた比較的ポップでリズミックなエレクトロ作品を集めたもので、どの曲もMulabというDAW(音楽制作ソフト)とSylenth1(ソフトシンセ)、ersdrums(フリーのドラムシンセ)を中心に作られている。


たしかに自分の作品の中では、比較的まとまって聴きやすい曲が多く、メロディーとかもあって馴染みやすい感じがあると思う。


この前たまたま人が車の中でかけてくれて、久しぶりに聴きなおしてみたら、案外悪くないなあ、という感じがした。

その後しばらく自分でも何度か聴いてみて、「やっぱりいいかもな…」という気がだんだんしてきた。



自分の曲を客観的に評価するというのはなかなか難しい。どうしてもエゴが入ってしまうし。

いや、完全に「客観的」とか、そういうことはそもそも意味のない言葉なので、言いなおすと

「まるで初めて聞く他人の作品のように」聴く、ということだ。


そのためには、作ってからある程度の時間が経っていて、やや偶然そこに辿り着く必要がある。



別のときの話になるが、友人の家に遊びに行ったとき、彼が気を利かせて私の昔の曲をかけてくれたのだが、それがあまりにも絶妙な音量でかけられたせいもあって、最初なんだか全く分からなかった。

最初小さな環境ノイズのように聞こえ、そのうちだんだん音楽らしいふうに聞こえてきて、しかしまだ自分の曲だとは分からずに、

「何だろうこれは。これはすごいね。」

と間抜けな感想を言ったあと、

「これ何?」とその友人に尋ねた。

そして彼がただにやにやしているのを見て、そのとき初めて今聴こえているのが自分の曲だと気づいたわけだ。


だがこういうのは、かけた人が上手すぎたというのもある。


結局、曲をかける側がその曲を「どのように受容し、認識しているか」ということが、音楽の再生に大きく影響しているのである。

これがDJ(プロアマ問わず)の大きな存在意義の一つ、「批評的な音楽プレイヤー」としての役割だと思う。


こうした人々のおかげで、私のような作る側の人間も、ポジティブな感覚を持つことができるのである。


※ここに収録されている作品には、当時働いていたマッサージ店のバックヤードで、お客さんが来ない間に持ち込んだノートパソコンで作られた曲もけっこう含まれている…。

高校生のときに、友人に誕生日プレゼントとして「平安時代を舞台にしたオリジナルのBL小説」をもらったことがある。

しかもこれは手書きの原稿用紙で、50枚以上はある超力作だった。

何とも有難いことなのだが、BLという概念もない時代に(少女漫画の一部にそういうものがあったそうだが)、先取りしすぎていて私にはこれがどういうものなのか当時さっぱり理解できなかった。

一通り読んで「何かエロくて雅な雰囲気だけは分かるんだけど、ストーリーの方は一体どうなってるんだ?」

というまことに間抜けな感想しか出なかった。


友人がゲイだったかというと、彼本人がそう匂わせてみたりする瞬間はあるものの、本当にゲイの要素があるのか、ただの趣味でおしゃれだと思ってそう演じていただけなのかは微妙だ。

そしてその辺りが、まさに彼の狙いだったようにも思われる。

いずれにせよ、少なくとも自分みたいなストレート志向の強い人間にとっては、ちょっと難しすぎる価値観であった。

そもそも彼とは当時、特別仲がよかったわけではなく、同じグループの一員といった感じだった。

しかしよく考えると部活は一緒だったし、バンドを一緒にやっていた時期もあるから、それなりに交流はあった。


彼は高校の中でも特別優秀だったから、私などのことはだいぶ馬鹿に見えていたんじゃないかと思う。卒業後はすぐに連絡が途絶えてしまった。


だからあのときは「何でこんなすごいものを俺にくれるんだろう?」

と思っていた。


いや、彼が私のことをBL的な目で見ていたとか、そういうことではない(はずだ)。


今にして思うと、あの頃私はよく、ノートにマンガを描いてはみんなに見せて回っていたから、同じ創作系の人間としてどう思うか評価が欲しかったんだと思う。

それで勢い余って私が誕生日のタイミングでプレゼントにしてしまったが、私がちゃんと理解できずに、適切な批評が来なかったものだから、がっかりしたのかもしれない。

しばらく経ってから、「やっぱり元の原稿は返してほしい。コピーしたものをあげるから。」と言ってきた。

私は「誕生日にいったんくれたものをあとで返せと言うやつがあるか?」と少し憤りながらも、

「そりゃそうだよな。しかしそもそもなんで、最初に原稿本体の方を俺にくれたんだよ。あいつも間抜けなところがあるよな…。」

と思いながら原稿を返した。


今となって見れば、私の異常な物持ちの悪さを考えると、あのとき返しておいて本当に良かったと心の底から思う。

じっさい彼にもらった原稿のコピーの方はもうどこかに行ってしまった(汗)。


大体、あの頃に自分自身が描いていた膨大なノート漫画も、その後恥ずかしくなって全部捨ててしまったわけだから、私は本当に保管に向かないタイプなのだ。


格好よく言えば断捨離というか、モノを衝動的に捨てまくる時期があって、そのへんは人からときどき「怖い」と言われる。

だがそれでいて私の部屋はいつも散らかっていて、ゴミのようなゴミでないようなものに埋もれて生きているわけだから、けっきょく捨てるべきものとそうでないものとの区別がうまく出来ない病気のようなものだと自分では思っている。


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↑京都の土は基本的に霜柱が出来ない。だからお庭の苔が美しく保たれるのだという。しかし一か所だけ霜柱が出来るところが近所にあって、そこだけは別のところから土を持ってきたと思われる。

ツイッター(X)上で、「Meute」という生でテクノをやるドイツの吹奏楽バンドが素晴らしいよ、と激推ししている方がいらっしゃったので、見にいってみたら本当に良かった。



こういうのを見ていて思うのは、やっぱりドイツ人の中で「テクノ」というものが完全に身体性を帯びて染み込んでいるんだな、ということだ。

生でやろうと電子でやろうと、テクノが必ずちゃんとテクノになる。


また、他の国とちょっと違うと自分が思うのは、ドイツのテクノはどこかクラシックに通底しているということだ。

これはデトロイトやイギリス、オランダのテクノと比べてもはっきりとその傾向があると思う。


それはやっぱりクラフトワークの頃からそうなので、クラシックの素養のある人がそのままテクノを作ったり受容しているんじゃないかという気がする。


私は一度だけ2003年頃にドイツ(ベルリンとフランク)に行ったことがあって、そのとき一番驚いたのは、西友みたいな庶民的なスーパーでも、うすーくいい感じに超ミニマルなテクノがかかっていて、そこで普通のおばちゃんとかがセーターを買ったりしていたことだ。


まあそれぐらい普通に日常に浸透しているんだな、ということである。


また、クラシックとの関連で言うと、駅前の通路みたいなところで2,3人の楽器奏者(たぶんオケの人じゃないかと思う)がストリートでボレロとかを演奏して小銭を稼いでいて、それが滅茶苦茶うまいんだけど、やっぱりどこかテクノを思わせるものがあった。


音質とアーティキュレーションかな。


ドイツの音質って、でかい木を切ってきて大きな家具を作って、ていねいにやすり掛けしたあとニスを塗って鈍い光沢を出したような、そんな感じの印象がある。

これはテクノでもクラシックでも、そういうところが共通している。


あとアーティキュレーションの細やかさ。

ロングトーン一発でも、その音の間に揺らぎやひだみたいなものが現れるのを素直に受容しつつ、慈しんでもいるような感じ。

そういうの好きなんだよな~。Meuteにもそういうのを感じる。

何か聴く方がめっちゃもてなされてるような感じがするというか…。


テクノみたいな機械の音楽でも、お国柄っていうか一種の身体性・感受性が表れるのって本当に興味深いと思う。

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