最近自分がメインで使ってるアナログシンセ、Bassstation2のファームウェアは、過去に何度かアップデートされていて、その中には結構 重要な機能の追加 があった。

しかし私はヤフオクでこの楽器を手に入れて以降、ずっと初期バージョンのまま使っていた。
 
というのも、そのままの機能でも十分満足していたし、ネットにつないでアップデートするのがとても面倒くさそうに思えたからだった。

それから何より、追加された機能のなかに「マイクロチューニング」というシロモノがあって、これに一度手を出したら最後、ひどい沼にはまりこむのは火を見るよりも明らかだったからだ。

つまり、私はたぶん、「マイクロチューニング」にビビっていたのだ。


「マイクロチューニング」とは一体何なのか。


知ってる人はもちろん知ってると思うけど、読者の中にはご存知ない方もいらっしゃることと思う。

しかし、マイクロチューニングの説明をしようとすれば、まず「平均律」の話をしなければならず、

現代の楽器がどうして平均律で調律されるようになったのかという西洋音楽の歴史について触れなければならず…

完全協和音程(ゼロビート)の話やら、数学やら、転調やら、そもそも何でドレミファソラシドなのかとか、何やらかんやら…非常~に面倒くさいので、そういうのは全部割愛することに決めた。


まあ興味のある人は各自調べてください。面白い話ではあります。


私としてはあくまで個人的な観点から、つまり最近マイクロチューニングの世界に参入した、ひとりのシンセサイザープレイヤー、即興演奏家として、個人的な価値観に基づいて、非常におおざっぱな説明をしたいと思う。


「マイクロチューニング」を使うとどうなるのか??


簡単に言うと、何か音楽がヨレっとした感じになる。

もしくはカレー粉をかけたような感じ、もしくはニョクマム(魚醤)をかけたような感じ、

あるいは何かしらスパイシーな感じになる。


これはもう、チューニングの仕方によっていろいろなので、どういうチューニングを施すかによって変わってくるんだけど。

世界にいろいろな国や地域があるように、星の数ほどチューニング(音律)が地球上に存在するうえ、やろうと思えば、地球上のどこにも存在しないチューニングもまた、無限に作ることが出来る。


そういうわけで沼なのである。


いや、沼というより海か?

私は今、マイクロチューニングという大海の波打ち際で、溺れないように浮き輪でパシャパシャやっている、水泳初心者のような状態である。


しかしこの「浮き輪でパシャパシャ」が楽しくないのかというと、そういうわけではない。


たとえば、何か一つエスニックなチューニングを選んでシンセを弾くとする。

すると、突然自分は抽象的な日本の街中を離れ、どこかの南国の田舎で、のんびり過ごしているような気持ちになったりする。

「まあお茶でも飲んで行きんさい」

みたいな親切な爺さんが出てきて、気が向いたらちょっと野良仕事を手伝うみたいな。


さて、Bassstation2の場合、メーカーが提供しているマイクロチューニングのファイルだけですでに5000以上もあって、どれを選ぶか非常に困る。

また、このファイル名を見たところで、いったいどういうチューニングの中身になっているのかさっぱり分からない。適当にファイルを選んで一個一個本体にロードしてみる以外、確認する方法はないのである。

しかも、そのうち一度に本体にロード出来るのは8つまでという仕様になっている。

まったく、ポケモンの必殺技くらいの記憶容量なのだ。


そういうわけで、元来怠け者の私は、いくつかランダムにファイルをロードしてみて、割と好みのものをいくつか選ぶところで精魂尽きてしまい、それ以降は、本体にロードしたチューニングで適当に弾く以外のことをやっていない。

それでも、カンボジアあたりで茶をすすめる爺さんが突然出てきたり、トルコの迷宮のようなモールの雑踏に紛れ込んだり、抽象的な思考で暮らしている他の星系の宇宙人とコミュニケーションを試みたりすることになる。


つまり、私にとって、これらのマイクロチューニングのプリセットは、ある種エスニックな共同体感覚のようなものを私に与えてくれるのである。

私は元々親が転勤族で、数年ごとに引っ越しを繰り返したせいもあって、「故郷」というものが存在しない。

それだけに、私は「故郷」とか「共同体」のようなものに強い憧れがあって、しかし同時に、どうしてもそれらに馴染むことが出来ない拒否反応みたいな感覚を持ってもいる。

たとえば、現在、私の実家は東京の西部にあるが、そこは自分にとっとは故郷と言うより、抽象的な空間に存在しているひとつの中継地点のようなものであって、そこに郷土愛のようなものを余り感じない。

いま住んでいる京都も、「好きな街」であるからここに住まわせてもらっているが、自分はここでは完全な余所者であり、いわば外国人のような感覚で暮らしている。

つまり、完全に「根無し草」なのである。

マイルドヤンキーのような、共同体に根差して生きていく人生ではなく、空想上の故郷を求めてさまよう孤独な魂なのである。


だんだん何を言いたいのかよく分からなくなってきたが、とにかく、エスニックに調整された音律を使って演奏すると、自分の中にかりそめの共同体感覚のようなものが生まれ、自動的にそこで生き始めるのを感じる。

結果的に、「何を演奏すべきか」ということが自動的に決まってくる。

これは非常に楽だし心地よい。

また、スパイシーな音律のずれと戯れるのは、刺激的な快感でもある。


そういうわけで、楽器をアップデートして以降は、もっぱらマイクロチューニングを使った即興を繰り返している。

いったんこれを始めてしまうと、過去の平均律を使った自分の演奏の録音を聞いた時に、何となく薄味というか、空々しく、人工的にさえ聞こえてくるから不思議である。

平均律は「自由さ」、「便利さ」を究極的に追及した結果得られた「世界標準語」のようなものであり、これを使えば世界中のミュージシャンが簡単に協力できるし、どこまでも果てしなく音楽を展開することができる。

しかしそれゆえに、どこか漂白されたような、臭みのないものになってしまうこともあり、ときには物足りなく感じたり、あるいは自由すぎるがゆえに、却ってどうしたらいいか分からなくなったりすることもある。

特定の音律には、どこか 自動的に演奏者の振舞いを導く ようなところがある。

それをクリエイティビティの敗北のように感じてしまう自分もいるし、またある種の気楽さ、「もう自分は創作で迷わなくてもいいのだ」というような、ほっとした気持ちを感じもするのである。



本日(2/23日曜日)です!四条大宮のイタリア酒場でバンド「部活アンビエンツ?」出演します。午後3時頃から。このときは多分平均律で演奏します(笑)。
20200223piccolo